第56話   殿 様 の 釣 U   平成15年11月07日  

殿様の釣は、お供の者は大変であったそうだ。

何しろ殿様だけに絶対に釣らせなければならないから、釣に行くと分かったら磯場に殿様が釣る場所をこさえさせて、釣に出掛ける前の数日前から毎日魚を撒餌しておびき寄せておいたという。いわゆる飼い付け釣りである。代々庄内のお殿様は釣が好きであったから、自分の子供にも釣りの名人をつけて磯釣りの手ほどきをさせていたと云われている。

その様な釣りであったのだから、余程腕が悪くない限り釣に行けば必ず釣れた。だからますます釣りが好きにならない訳がない。その様な釣りが江戸時代の末期から明治初期まで続いていたようだ。明治に入ってからも、やはり子供の時から釣りの名人と云われる人が傍について手ほどきはしたが、流石に家来たちはおらなかったが、お供の者と家に伝わる名竿を持って数人で出掛けたものらしい。

お殿様だけに、庄内を代表する名竿を沢山持っておられてその一部が今では致道博物館に展示されている。第14代の殿様酒井忠宝公(さかいただみち=安政3年1885~大正10年1921)が釣られた魚拓(明治10年代)も展示されているが、黒鯛、石鯛、真鯛、ソイなど1尺5寸から2尺前後の皆相当に大型のものばかりで一見の価値があるものばかりである。しかもそれらは弱いテグスを使っての延べ竿の庄内竿で釣られたものであるのだから腕の方も結構確かであると云える。弱いテグスを使っての延べ竿で釣りの上げる事の大変さは現在のリール付の竿を使えば0.4号以下のハリスを使って大型の黒鯛を釣るのとさほど変わらないと考えられる。当時の釣りは道糸、ハリスの弱い物で釣り上げたのであるから、だから勝負とも云えるのである。この勝負には三つあって釣れなければ「空勝負」、大物とのやり取りは「大勝負」、運良く捕りこみに成功すれば「名勝負」と云われた。

写真は酒井忠宝の釣った明治16年の黒鯛の魚拓